静脈とイクラ

同人と鑑賞記録

よだかの星を読んだ

ウロコです。

宮沢賢治作品をあまり読んだことが無いのですが、先日『よだかの星』を初めて読みました。

www.aozora.gr.jp

小説自体は短い話で、教養のない私は読み終え後「ふうん」程度しか思わなかったのですが、現在まで読み継がれている文学作品が「ふうん」で終わるようなものであるはずが無いので、専門家の記事を探してみました。 

catalog.lib.kyushu-u.ac.jp 

ありました。

執筆当時立教大学の研究員だった方の記事がヒットしました。ありがとうインターネット。

以下面白かった箇所をつらつらと書いていきます。

宗教イデオロギーを基盤とした自己犠牲については、負の側面に対して厳しい批判もなされてきた。例えば『宮澤賢治殺人事件』(太田出版、一九九七年三月)の著者・吉田司を交え、柄谷行人関井光男、村井紀の四名によってなされた共同討議では、宮澤賢治の詩や童話に繰り返される「平和主義のかたちをとったファシズム」に警鐘が鳴らされている。単に仏教・法華経というよりも、国家主義や海外膨張主義と密接であった田中智学の日蓮主義に作者が傾倒していた事実をふまえ、矛盾や葛藤のない世界を希求するビジョン、そのために主体の無化をロマン ティックに肯定することが問題視されたのである 。

先ほどにも書いたように私はそもそも宮沢賢治に詳しくなかったので、この箇所の知識は新鮮で面白かったです。

特に"国家主義や海外膨張主義と密接であった田中智学の日蓮主義"の箇所を読んで、「日蓮宗全体主義に何の関係が……?」と思ったので、ここの知識を補完していきたいです。

ja.wikipedia.org

鷹が《改名の披露》(八四頁)を促したこともまた、重い意味を持つだろう。鷹はよだかを殺すと脅しながら実際は殺そうとしておらず、改名させて一軒残らず挨拶回りをさせたいのである。それは、よだかを共同体の外縁まで遠く排除し、そこに留めおくことが、鷹を中心とした共同体の求心力を確認し合うために必要だったからだろう 。

ここは読んでいて「た、確かに〜!」とスッキリした部分です。私の浅い読みでは「鷹、嫌なやつやな」と思う程度だったのを、ここまで言語化していただける気持ちよさよ……!

本稿では、遠く高い場所を目指したよだかの飛翔において、 上や下という方向感覚が失われた瞬間が語られていることにも とくに目配りしておきたい。《もうよだかは落ちてゐるのか、 のぼってゐるのか、さかさになってゐるのか、上を向いてゐる のかも、わかりませんでした。》(八九頁)。この箇所は先行研究 で重視されてこなかったが、よだかの上昇志向に攪乱が生じた 瞬間であり、それにもかかわらず《こゝろもちはやすらか》(八 九頁)という心理状態に至ったという、一連の経験において最 も複雑かつ重要な局面といえる。天空で青く燃え続けるよだか は鳥であったときの望みを確かに叶えたものの、その過程で、望みを生じさせた価値基準そのものを大きくぐらつかせていた。とすれば、天空で孤独に在り続けるというイメ、天空で孤独に在り続けるというイメージは、不幸せな色合いを幾重にも帯びることになる。

ここは確かに!と目からウロコの箇所でした。深く読み込める人すごい。そして無駄な説明をつけず、この短い文でこれだけの意味を生み出す宮沢賢治すごい。

まだ書きたいことはあるのですが、めちゃくちゃ眠くなってきたのでこの辺で。

よだかの星、味わい深く面白い作品でした!